ワークスKさんの掲示板で、アレクシス・ド・トクヴィルの主張した、アメリカ人の行動原則に触れたことがあります。このときは、私がたまに読むBlogで論じていたトクヴィルの主張を次のように抜粋して紹介しました。
トクヴィルの考えは、
トクヴィルがアメリカを旅行して印象づけられたのは、それが徹底して対等な個人の社会だということだった
ので、
(アメリカでは)人々は抽象的個人として生きている。(略)人々は孤立した生活に不安を抱いており、教会や結社(今でいうNPO)に集まろうとする
ということでした。
アメリカで暮らす前は、このうちの前半部ばかりが強調されて伝わっていた記憶があり、実際には、これはこれで正しいと感じたのですが、今振り返ってみると、後者の側面を実感する場面が多々あったように思います。
そもそも、Model Railroadingのクラブがたくさんできて活発に活動しているということがその証拠ともいえます。そして、何かあると、皆が集まって楽しむ、という団体行動も少なからずある、というのは、新しい発見でした。却って最近の日本の方がそのような機会が減っているのではないでしょうか。
そんなクラブのイベントの1つをご紹介します。2001年の7月と、ずいぶん前のことになりますが、クラブのメンバーの数人がUPのRosevilleの整備工場の見学に行ったことがありました。私がクラブに所属していたずっと前の話なので、経緯はよくわかりませんが、特別な公開日のような機会があり、有志が集まって行ったのでしょうか。工場中の写真という点でも参考になるかと思いますので、紹介します。
(注:元のページはこのページの一番下です。写真の著作権はSilicon Valley Linesにありますので、転載はご遠慮ください。 — All the photos in this page are copyrighted by Silicon Valley Lines)。
まずは、SD90 8511号機(現在は8921に改番)の写真を何枚か。
これは、横から撮影した写真をパノラマ合成したものです。工場の中で、撮影可能な距離の制約もあって1ショットで撮ることができなかったのだと思いますが、はやり長さのある機関車なのでしょう。
続いて、キャブの拡大図。Under Warrantyとありますので、この当時は、まだ保証期間ということですね。ちなみに、UPに納入されたのは1998年5月のようですので、この時点では納入後3年くらいです。
これは工場の様子です。左手に、SW1500/1222号機が見えます。よく見ると、SP塗装で、車番のところだけ黄色の地に赤の字のUP塗装になっています。あまり良い状態には見えないのですが、これは今も現役で、UPの子会社(?)のUP Yardに移管されているようです。
これは、解体中の(旧)SPの機関車です。フロントがつぶれていますので、事故にあったのでしょうか。少しかわいそうな感じがしますね。
最後に紹介するのが、工場内に掲げられていたEMDの機関車の部品の対応表です。これだけの種類があると見るべきか、これだけの種類をよく整理していると見るべきか。
参考までに、ご存知の方が多いと思いますが、UPの車籍簿(Roster)の変遷は、ここに詳しくまとめられています。上記で引用したデータについては、このページを参考にしました。
[2009/7/20追記: 上記の部品表の写真を、ワークスKさんが加工されたものがありますので、ご紹介します。]
後半はもしかすると、現在の日本の社会を表しているように見えます
こんにちは。
興味深いお話ですね。難しすぎますが・・・。
個人的に感じている印象では、わが国は、前半部分は、排他的で、差別しようとする傾向があるように思っています。
後半については、以前の隣組のような、仲間内の監視体制の中で、コミュニティがうまく作られていたような気がします。
後半の部分は、絶対に前半の部分を必要としていますので、現在のわが国の社会は、アメリカを模倣したがゆえに、前半を取り入れることができず、行き先を見失っているように思えてなりません。
「対等な個人」確かに相手を尊重する時に、必要な考えですよね。
もっとも、アメリカ、というより、白人社会の場合、人種差別は付いて回りますが・・・
直球勝負のコメントありがとうございます。
gallopinggooseさん:
お体の調子はいかがですか。今は一時帰宅されているのですよね。ゆっくり体を休めて、好きなことを存分に楽しんでください。
さて、今回の記事、冒頭は枕詞的に書いたものです。突っ込まれることはあまり期待していませんでしたので、真正面からコメント頂き、恐縮です。
このテーマ、言いたいことはたくさんあるのですが、浅学の私には、理路整然とまとめるだけの実力が無いようです。折に触れて気長に書いてゆこうと思います。
人種差別について触れておくと、シリコンバレー近辺は、中国人、インド人抜きでは成り立たないコミュニティで、全米でもきわめて特殊な場所です。
私自身、人種差別で不愉快な思いをしたことはありませんし、私のいたクラブでは、日本の会社と仕事をしたメンバーが何人もいたこともあり、とても良くしてもらったと思っています。
やはり社会契約論に行き着きますか
アルコに関するヒストリカル・ソサイエティが出来たことに関して「市民結社と民主主義」を論じたツリーは次です。
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/1000007762/bbs_tree?base=962&range=1
この中で、northerns484さんの発言にあった「米国では『人々が集まるためのルール作り』がしっかりしている」というところがポイントか、と私も思い始めました。
逆に日本では、ここのところがアヤフヤだということです。
集まりの本来の目的とは外れた興味で盛り上がるとか、集まりの中に社会的地位関係を持ち込んだり、自らの社会的、金銭的利益のために集まりを利用する等々……
「慣れる」だったり「馴れる」ならはよいのですけれど、「狎れる」となると、鼻持ちならない状況ということです。
なお、この話題から外れますが、記事本文の最後の、UPにおけるディーゼルエンジンの表を写した写真を画像処理ソフトで弄ってみました。板自体がカールしているようで、限界がありますが、ご参考まで
http://works-k.cocolog-nifty.com/photos/bbsetc/1e6474625bc907bef06f989104970a14a.jpg
ルールを支える思想
ワークスKさん:
画像処理したデータをご紹介いただき、ありがとうございます。色も鮮やかに調整されたのですね。早速リンクを張らせて頂きました。
本題(?)のほうですが、このBlogを始めたころに書いた記事があります。
http://northerns484.sakura.ne.jp/blog/?p=41
書き足りないのですが、今振り返ってみると、このような雰囲気の中では、
> 集まりの中に社会的地位関係を持ち込んだり、自らの社会的、金銭的利益のために集まりを利用する等々
などというようなことは起こりえなかったと思います。仮に起こったとしても、そういうことをした人は即刻排除されるか、集まりそのものが消えてしまうかのいずれかになったでしょう。
「ルール作り」について一言加えると、ルールの体系そのものが整備されているいうこともさることながら、その根底にある思想が明確化されている、ことが大前提です。これが明確にされていないと、有効なルールができないと考えます。私のいたクラブでは(そしておそらくその他のクラブでも)、「皆でModel Railroadingを楽しむ」というとても純粋な動機がクラブの原動力でした。