文才が豊かとはいえない私は、Blogのネタをひねり出すのに苦労しているだけではなく、そのネタに至る書き出しをどうするかでいつも悩んでいます。ネタを見つけても、書き出しが思い浮かばずにしばらく記事にできないことも多々あります。
先日ご紹介したクラブのイベントという記事も、その一例です。このときは、苦し紛れに、ワークスKさんの掲示板で触れた、アレクシス・ド・トクヴィルの主張を引っ張り出して書き始めました。本題よりこちらに反応があったのには予想外で、ワークスKさんには、次のようなコメントをいただきました。
この中で、northerns484さんの発言にあった「米国では『人々が集まるためのルール作り』がしっかりしている」というところがポイントか、と私も思い始めました。
逆に日本では、ここのところがアヤフヤだということです。
ここの私の発言というのは、ワークスKさんの掲示板のAlco Historical Societyのスレッドに書いた以下の文です。
(トクヴィルの主張のうち)「人々が集まろうとする」という観点に注目すると、米国では「人々が集まるためのルール作り」がしっかりしていると考えています。
ご紹介したAlco Historical Societyのトップページの活動の現状の一行目には、
We have our By-Laws and Consitution written.
とあります。一般的に、By-Laws and Constitutionには、組織の目的や運営の仕組みが、事細かに定義されています。トクヴィルの主張を頭に入れてこのページを見返すと、この一行が先頭にあるというのは、大きな意味があるのでは、と感じています。
この中に書いた”By Laws and Constitution”、定款というのが一番近いと思うのですが、一体どんなことが書かれているのか、具体的なイメージが湧きにくいと思います。組織ごとに異なるものですから、どれだけ参考になるかはわかりませんが、私の在籍していたクラブのBy Laws and Constitutionで何が決められているのかを次回ご紹介したいと思います。
ルール以前に、人に対する気遣いが違うような気がします。
こんにちは。
You Tubeで実物の機関車のビデオを見ていると、ビデオカメラの前にいるカメラを構えた人が、必ず、後ろのビデオカメラの人に振り返り、自分が写真をとり終わったり、或いは、しゃがみこんで、妨げにならないようにと、気遣っているのが、かなり多く見受けられました。
ここら辺になると、もはやルール以前のような気がします。
もちろんルール作りもうまいのだと思いますし、決して、みんなで赤信号を渡ってしまうようなことはしないのでしょう。でも、何か、それ以前の心構えから違ってきているような気がします。
すみません、せっかくの出だしを邪魔してしまったみたいです。
gallopinggooseさん、同感です。
northerns484さん、このコメント欄にgallopinggooseさんからのご意見に沿えさてて頂く事をお許しください。
過日私も遠地で列車の写真を撮っていて、自分より前にいた撮影者が何度も後ろを振り返り私達の事を気遣っている様子を体験しました。
>ここら辺になると、もはやルール以前のような気がします。
私もまったくその様に感じました。これこそが自発的な もっとも大切にしたい心構えだと思っています。勿論ルールの存在は大切ですが、自然に体が動いてしまう心遣いを、もっともっと見直したいと思っています。
もしそのベースにのっとってのルール作りだとしたら、言うに及ばずその効果は絶大になる事でしょう。
対等の個人であるが故
gallopinggooseさん、F’Trackさん:
コメントありがとうございます。
どんどん難しい方向に向かっていて、今更ながら、しまったと思っています。
どれだけ言いたいことが表現できるかわかりませんが、乗りかかった船なので、私の考えていることを書いてみたいと思います。
「人を気遣う」のも、「ルールを作るのがうまい」のも、結局はトクヴィルが主張した「アメリカの社会は徹底して対等な個人の社会」である、ということに起因すると思っています。
「個人の社会」であるということは、極論すると、「皆が自分の好きなように生きる」ということです。
日本でこういう言い方をすると、他人のことを省みず、自分勝手に生きるというネガティブなイメージが先行するかもしれません。
アメリカでは、「個人が対等」ということが強く意識されているので、「好きなように生きたい自分」を実現するには、「好きなように生きたい他人」を意識し、両者の折り合いをつける必要があります。
だからこそ、「人を気遣う」とか、「ルールを作って」他人との折り合いをつける仕組みが発達したのではないか、というのが私の感じていることです。
アメリカ社会の特質は……
gallopinggooseさんとF’Trackさんもこの問題にご関心をお持ちとのことで、大変に心強く思います。
ところで、確かアメリカ史を専門とされる猿谷要(さるや・かなめ)氏の講義で伺ったことかと思いますが、アメリカは世界の中で独特な社会構造を持っているという話です。
先ず、自然環境が大変に厳しいために近所は助け合わないと生きていけない。一方で、移民国家だから各人の民族や宗教が異なる。
よって、お互いは(夫婦間であっても)人間関係を維持するために多大な労力を費やす。また意志を伝える手段は、あうんの呼吸は不可能で、必ず言葉、さらには文字を使う……ということだった思います。
愚行権
northerns484さんのおっしゃる通りなのです。
アメリカで最初に感じたのは愚行権があるということです。麻薬をやろうが刺青を彫ろうが、人に迷惑をかけないのなら許されるということです。
日本にはありませんでした。すぐに社会的に抹殺されてしまうでしょう。
愚行権がある国は民度が高い国です。日本は多少良くなりましたが、まだまだです。
「私はこう思う」ということを大きな声で言え、それを実行している人を攻撃しないということが大切なのです。
趣味の世界でも同じことで、上限を決めてその枠の中で遊べというのはおかしな話です。でもそんなことを言っていた御大も居たのです。しかし不思議なのは、その枠を作ってもらうと安心できる人も多くいたことです。
自由ということは、その自由の意味を考えられる人のみが謳歌できることのようです。昔、奴隷を解放したとき、「お前たちは自由だ。どこへでも行っていいのだ。」と言われても、誰も行かなかったという話と重なるような感じがします。
Re: 対等の個人であるが故
>「好きなように生きたい自分」を実現するには、「好きなように生きたい他人」を意識し、両者の折り合いをつける必要があります。
当たり前の事のようですが、そこが忘れがちな事なのかもしれません。「両者の折り合いをつける必要」を人は何故忘れがちになるのでしょう。きっと個人の枠からはみ出る事が、思ったほど簡単ではないからなのでしょうか。
単に隣には自分以外のまったく同じ立場の友がいる。とだけ意識できれば良いのに。
対等な個人の自由意志を尊重するアメリカ社会を、ちょっと羨ましく思ったりしてしまいました。
決して日本人にも その様な事が欠けているとは思えないのですが?
皆さん、貴重なコメントをありがとうございます
みなさん、貴重なコメントをいただき、ありがとうございます。
ワークスKさん:
> 先ず、自然環境が大変に厳しいために近所は助け合わないと生きていけない。
ここは、先のコメントに書ききれなかったところです。ご指摘のとおりだと思います。
> 一方で、移民国家だから各人の民族や宗教が異なる。
> (略)
> 必ず言葉、さらには文字を使う
ここもご指摘のとおりだと思います。アメリカ人は、よくしゃべりますが、聞き上手の人も多く、何かを伝えたいという思いが伝われば、辛抱図良く下手な英語に付き合ってくれる人が多かったように思います。
ついでにいうと、日本人の英語が上手でない、というのは、英語の文法や語彙以前に、自分が何を言いたいか、を系統立てて論理的に整理する訓練が足りないからではないかと感じています。
dda40xさん:
愚行権という言葉は、はじめて聞きました。ありがとうございます。
> しかし不思議なのは、その枠を作ってもらうと安心できる人も多くいたことです。
ここは、実はあまり変わっていないのではないかと思います。貴Blogに、「DCCはやってみれば簡単で楽しいことがわかるのに、その第一関門を超える人が少ない」ということをコメントさせていただきましたが、こういうことに起因しているのではないか、などと考えています。
F’Trackさん:
> 決して日本人にも その様な事が欠けているとは思えないのですが?
はい、同感です。ただ、単一に近い民族構成、均一な教育、という中で、「阿吽の呼吸」とか「以心伝心」ということばがあるように、個人と社会との関係があいまいになっているのではないかと思います。
誰かに言われたのか、何かで読んだのか忘れましたが、日本ではprivateとpublicとが明確に区別されていない、と言われたのが記憶に残っています。先のコメントで言えば、「好きなように生きたい自分」がprivate、「好きなように生きたい他人との折り合いをつける」のがpublic、に相当すると思います。
続 愚行権
私がこの言葉に接したのは16年ほど前です。子供のPTAに参加せざるを得ず、出かけてみて教師の石頭と親の無責任にカチンときたのです。子供を学校に預けている間は学校の支配下にあって当然ですが、学校外まで学校が支配しようとし、なおかつ、親はそれを当然のように受け入れるわけです。その方が楽と言えば楽なのでしょう。
何かの間違いでPTA会長になってしまったので3年間大いに楽しみました。言いたいことを言い、教師の無節操な言い訳を看破して意識革命を引き起こしたつもりです。
私の友人の教育学の大家がこの愚行権という言葉を教えてくれたので、これを使って教師の反論を撃破しました。
「帰宅後の外出には制服着用」という奇妙奇天烈な校則をなくすと同時に制服そのものも自由にしました。ところが親は制服を着させて来させるのです。自由な服を着てくるものはうちの子供だけでした。
彼らには、バカなことをできるありがたみを享受した経験がないようなので、なかなか受け容れられないもののようでした。
麻薬は売ってはいけないが、買ってもよいというアメリカの法律の話には絶句していました。極論なのですが説得力があるのです。
さて、本論です。「教師は親よりも優れている」というのはもう正しくない時代になりました。出版社は購読者より優れているというのは幻想にすぎないことも証明されてしまったようです。
クラブに入って一番ありがたかったのは、各界の専門家と言われる人たちと直接お話しできることでした。私が入ったクラブが、たまたまそうだったのかもしれません。私と接する先輩方が、特別の才能を以って接して下さったわけでもありません。
ひとつだけ言えるのは創始者の一人の伊藤剛氏が、このトクヴィルの主張と同じことをおっしゃっていたのです。
鉄道模型を楽しむ目的のために人を集め、みんながそれぞれに楽しむ方法を考えてくださったというのが私の人生を大きく変えたことの一つであると思います。
見つけたものは発表しよう。人の発表に改良点があればそれを教え合おう。その繰返しが我々クラブ員を向上させたのだと思います。
クラブ機関誌は常に日本の模型界の最先端を歩んでいました。その引用が模型雑誌に必ず載っていた時代を作った伊藤氏の眼の付けどころは素晴らしかったと思います。
実体験に基づいた興味深いコメントをありがとうございます
dda40xさん:
> 見つけたものは発表しよう。人の発表に改良点があればそれを教え合おう。その繰返しが我々クラブ員を向上させたのだと思います。
後日紹介しますが、私のいたクラブのBy Laws and Constitutionには、まさしくこのようなことが明文化されています。
関連して思い出したことがあります。私がアメリカのクラブに入会意思を伝える際に、「どういう貢献ができるかわからないのだけれど」みたいなことを言ったとき、「みんな得意不得意があるさ。不得意なところは、得意なメンバーに教えてもらって上手くなっていけばいいんだよ。誰だってなにかしら得意なことがあるんだから、まずはそれを発揮してくれれば十分だよ。」というようなことを言われ、心強く思ったのが、今でも印象に残っています。
心遣い
おはようございます。
>「みんな得意不得意があるさ。不得意なところは、得意なメンバーに教えてもらって上手くなっていけばいいんだよ。誰だってなにかしら得意なことがあるんだから、まずはそれを発揮してくれれば十分だよ。」
私も同じことをフライトシミュレータのアドオンソフトのベータテスタになるときに言われました。
言ってくれた人は、きっと自分が始めてデータテストに参加するときの不安を思い出して、励ましてくれたのではないかと、今でも思っています。
こういう心遣いと、後一つ、対等であるということ、これが日本と大きな違いではないかと思います。
わが国では、すぐにランクを付けたがる風潮があるような気がします。上下関係が厳しい・・・
これがいいことなのか、悪いことなのかは、わかりませんが・・・(いい風に作用する時もある・・・自分にとってですが・・・)
だんだん手に負えなくなってきましたが
gallopinggooseさん:
いつもコメントありがとうございます。
> 上下関係が厳しい・・・
アメリカでは、権限という意味での上下関係は厳しいいうか、絶対的であると感じています。
ただし、そういう、権限という観点での関係と、対等の個人同士との関係、というのが完全に別とは言わないまでも、日本に比べると区別されているような気がします。
趣味の世界になると、完全に対等の個人同士の関係になりますよね。
書ききれていないところもあるのですが、だんだん手に負えなくなってきたような気がするので。。。